高取町にみる「国名集落」
  私達の先人が歩んで来た大和の道を、私達もまた同じように踏みしめ、歩み続けています。
  
  高取山、高野街道(紀路)、吉備川と私達を取り巻く風物は、ひとつの地名として私達の子守唄になり、やがてまた、私達への挽歌として後々の人達に言い継がれて、語り継がれて行くことでしょう。

  地上に人の生活が始まるとともに地名も生まれたのでしょう。土佐、薩摩、吉備、・・・
奈良県にみる「国名集落」
高 取 町 明日 香村 橿 原 市 桜 井 市 天 理 市 三 宅 町
土  佐 大  隈 豊前(ぶぜん) 上総(かずさ) 石見(いわみ)
薩  摩 飛  騨 出  雲 備  前 但馬(たじま)
吉  備 吉  備 因幡(いなば)
長  門 武  蔵
  古代大和王権は、古墳や宮殿、寺院そして道路や灌漑用の溜池づくり等に、地方から使役の民を大和に召しださせました。召しだされる時は、国造(くにのみやつこ)の役人に付き添われ、宿泊や食事も与えられました。労働につくと、夜を日についで、工事は強行され、疲労して逃亡するというのもあり、そのような過酷な労働に耐えてやっと任務を終えて帰郷する時には政府の援助もなく、裸同然で放り出されました。国名がつく集落は、帰郷できず、その地にそれぞれの国ごとに来た人々が住みついたものと思われます。
国名の地名に寄せて   「ふるさとを学ぶつどい」池 口  久 子
  飛鳥・奈良時代は、「米年貢(租)」「人夫年貢(庸)」が下々の民に課せられた絶対的な供出であった。古墳、寺院、宮殿これらは皆下々の民の力の結集であった。働いた報酬は、逃亡、飢、病そして行路の病死であった。

聖徳太子は、

    家にあらば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥(こや)せる この旅人あわれ

と路端の死者を悲しむ、

また、柿本人麻呂も

    草枕 旅の宿どりに 誰が夫(つま)か 国忘れたる 家持たまくに

と飢えた死者を悲しんだ詩がある。

  そこまで到っていない労務者は恐らくその地に住みついたと思う。大字名の由来にもおそらくその背景には数々の哀しいロマンが秘められていたのである。
  故郷を離れて生きていく生活をよぎなくされた人達のたった一つの“自由な意志”は故郷の名を今の場所につけることであった。
「古い地名は無形文化財」・・・「地名を守る会」代表、日本家系図学会会長 丹 羽  基 二
  古い地名は無形文化財。万葉の昔から、そこで生きてきた人たちの血がかよっています。
  全国の自治体が平成の大合併に突き進む中、旧地名の消滅に心を痛めている。「地名変更はくれぐれも慎重に」「旧地名の復活は、勇気をもって実行を」それぞれの首長にせっせと要望書を書き送る。ごく一部でだが旧地名の良さを見直して保存・復活を検討している市区もある。
高取の名の由来
  高取の名は山の名です。その山に築かれた城が天下の名城としてきこえ、かつ藩名となったので高取の名は広く知られました。
  高取山は古くは鷹鞭山と呼ばれていました。鷹鞭の「むち」は古い言葉で、「神」に通じるから「鷹神」の意味であろうかともいわれています。
♪ふるさと日和(びより)  森 昌子  作詞:杉紀彦/作曲:森田公一
 あの人に逢いたくなって
 あの人のふるさとへ来たの
 ふるさとへ来たの
 思い出ばなしは いい匂い
 私を包んでくれるから
 なんとなくぬくもる ふるさと日和           わらぶきの屋根さえ見えず
                                歳月(としつき)にふるさともかわる
 遠い日の夢追いかけて                 ふるさともかわる
 懐かしい裏山へのぼる                 けれども訛(なまり)りがあたたかい
 裏山へのぼる                      あいさつ言葉もあたたかい
 遊んだ仲間はどこにいる                あのひとによく似た ふるさと日和
 涙が心を駆けて行く
 風ひとつ優しい ふるさと日和             安らぎに逢いたくなれば
                                いつか又ふるさとへ来よう
                                ふるさとへ来よう
                                つかれた心にしみじみと
                                季節の眺めがしみるだろう
                                その日までよろしく ふるさと日和